ヨガリトリートで得た気づき③ ー 変わらないもの、本当の自分を見つける旅 ー
- インストラクター Kana
- 2月15日
- 読了時間: 3分
3日目の朝ヨガ
2回目の朝ヨガはイギリス人のDavidが担当だった。
目の前に広がる壮大な景色を見ながら参加する朝ヨガ。
陽の光や美しい山々に心奪われる。
斬新で不思議な動きの多い彼のクラスはとても心地が良くて、
呼吸と身体のつながりを感じられた。
クラスの途中、雄大な山々が広がる美しい景色を目の前に、タダーサナ(真っ直ぐ立つだけのポーズ)をとっていたとき、なんだか不思議な感覚に陥った。
そして、思った。
”I am no one"

ヨガインストラクターでもなく、
チアの先生でもない。
誰かの娘でも、誰かの兄弟でもない。
私は何者でもないんだと気づいた。
そしてそれに気づいたとき、長いあいだ過去に囚われていた私は、そこから解放された。
私という人間は、過去の出来事や悍ましい経験に囚われて苦しんできたけど、そうした苦しみは ”私” とは全く関係ないんだ、と。
何者でもない、ただのひとりの人間なんだと気づいたとき、過去の苦しみを自分自身と切り離すことができた。
今の私は産まれたばかりと何も変わらない、何もない、何者でもない人なんだと。
同時に、私自身の中にある、変わらないものがあることに気づいた。
それは私が産まれたときから持っていて、子どもの頃、そして今も、この先もずっと変わらず持ち続けているもの。
産まれてから死ぬまで、ずっと私の中に存在しているものを見つけた。
そういえば、子どもの頃からそうだった。
東京にいるときも今までも、日々の生活の中でそれを感じる瞬間は何度もあったのに、その存在に気づけなかった。それが ”私” だとはわからなかった。
それが何かは、敢えて書かないことにする。
このブログを読んだ人が、先入観を持ってしまわないために。
ヨガの教えは自らの経験の中にある。
これは私自身が見つけた一つの答えであって、みなさんとは違うかもしれない。
いずれにしろ、この気づきはこれからの私の人生を少し軽くしてくれるだろう。
このことを忘れずに生きていこう、とノートに書いた。
なぜなら、普段の私はきっとそうではないから。
そんなこと忘れたかのように生きていくかもしれない。そうせざるを得ない世の中だから。

翌日になって、”変わらないもの” … もしかしたら、これが ”プルシャ=真我” なのかも…?と思った。
プルシャとプラクリティが出会い、
統合。これがヨガの最終目的でもある。
プラクリティとは、私たちがプルシャの存在に気づくため、この世界の全てに変転したもの。つまり私たちが見ているものは、全てプラクリティということ。
私自身も、プラクリティの一部である。
実際のところ、これがプルシャなのかは全くわからない。違うかもしれない。
これからヨガを学んでいく中で、
違う気づきと出会うかもしれない。
ただ、今この年齢で ”これがプルシャかもしれない” と思える日が来るなんて、全く思っていなかった。
一生かかっても分かり得ない、答えの出ないものかもしれないと思っていたから。
この辺のヨガ哲学については、学んでない方には意味不明だと思う。
興味のある方やご質問があれば、コメントに残していただければと思います。
どんな些細なことでも、ぜひ。
そしてヨガを学んでいる方で ”それは違うと思う” とか ”私はこう思う” などの
ご意見があれば、そちらもぜひコメントくださると嬉しいです。
次の記事がリトリートに関する最後の記事になります。
もう一つ、私がこのリトリートで得た気づきを書いていきます。
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