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ヨガリトリートで得た気づき③ ー 変わらないもの、本当の自分を見つける旅 ー

3日目の朝ヨガ


2回目の朝ヨガはイギリス人のDavidが担当だった。

目の前に広がる壮大な景色を見ながら参加する朝ヨガ。

陽の光や美しい山々に心奪われる。

斬新で不思議な動きの多い彼のクラスはとても心地が良くて、

呼吸と身体のつながりを感じられた。

クラスの途中、雄大な山々が広がる美しい景色を目の前に、タダーサナ(真っ直ぐ立つだけのポーズ)をとっていたとき、なんだか不思議な感覚に陥った。

そして、思った。

”I am no one"

ヨガインストラクターでもなく、

チアの先生でもない。

誰かの娘でも、誰かの兄弟でもない。

私は何者でもないんだと気づいた。


そしてそれに気づいたとき、長いあいだ過去に囚われていた私は、そこから解放された。

私という人間は、過去の出来事や悍ましい経験に囚われて苦しんできたけど、そうした苦しみは ”私” とは全く関係ないんだ、と。


何者でもない、ただのひとりの人間なんだと気づいたとき、過去の苦しみを自分自身と切り離すことができた。

今の私は産まれたばかりと何も変わらない、何もない、何者でもない人なんだと。


同時に、私自身の中にある、変わらないものがあることに気づいた。

それは私が産まれたときから持っていて、子どもの頃、そして今も、この先もずっと変わらず持ち続けているもの。

産まれてから死ぬまで、ずっと私の中に存在しているものを見つけた。

そういえば、子どもの頃からそうだった。

東京にいるときも今までも、日々の生活の中でそれを感じる瞬間は何度もあったのに、その存在に気づけなかった。それが ”私” だとはわからなかった。


それが何かは、敢えて書かないことにする。

このブログを読んだ人が、先入観を持ってしまわないために。

ヨガの教えは自らの経験の中にある。

これは私自身が見つけた一つの答えであって、みなさんとは違うかもしれない。


いずれにしろ、この気づきはこれからの私の人生を少し軽くしてくれるだろう。

このことを忘れずに生きていこう、とノートに書いた。

なぜなら、普段の私はきっとそうではないから。

そんなこと忘れたかのように生きていくかもしれない。そうせざるを得ない世の中だから。


翌日になって、”変わらないもの” … もしかしたら、これが ”プルシャ=真我” なのかも…?と思った。

プルシャとプラクリティが出会い、

統合。これがヨガの最終目的でもある。

プラクリティとは、私たちがプルシャの存在に気づくため、この世界の全てに変転したもの。つまり私たちが見ているものは、全てプラクリティということ。

私自身も、プラクリティの一部である。


実際のところ、これがプルシャなのかは全くわからない。違うかもしれない。

これからヨガを学んでいく中で、

違う気づきと出会うかもしれない。


ただ、今この年齢で ”これがプルシャかもしれない” と思える日が来るなんて、全く思っていなかった。

一生かかっても分かり得ない、答えの出ないものかもしれないと思っていたから。


この辺のヨガ哲学については、学んでない方には意味不明だと思う。

興味のある方やご質問があれば、コメントに残していただければと思います。

どんな些細なことでも、ぜひ。

そしてヨガを学んでいる方で ”それは違うと思う” とか ”私はこう思う” などの

ご意見があれば、そちらもぜひコメントくださると嬉しいです。


次の記事がリトリートに関する最後の記事になります。

もう一つ、私がこのリトリートで得た気づきを書いていきます。


 
 
 

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